明日は明日の風が吹く

無味無臭・人の記憶に残らないをモットーに人間関係の荒波をいきていく30も半ばを過ぎた私の鬱日記

子供が大嫌いだった私が近所から肝っ玉母さんに認定されるに至るまで

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どうも我が家は子供の友達にいつ訪問しても良い家にカウントされているようで、我が子がいない時でもお邪魔していい?って子供が遊びに来る。

 

いや、駄目だから。時々中学生まで来る。

 

終業式なんかに姉弟の友達を呼んで我が家でお昼ご飯を食べようってことになると

予定人数の倍以上に膨れ上がって結局20人ぐらい子供がいたりもした。

とんだ寺子屋状態です。

 

ヤンチャな子もいればおとなしい子もいる。

良く喋る子もいれば寡黙な子もいる。

ゲームが好きな子もいればお外一択の子もいる。

兄弟が多い子もいれば一人っ子もいるし

好き嫌いなくなんでも食べれる子もいれば、アレルギー持ちの子もいる。

 

子供なんてすぐ泣くし自分の都合のいいことしか言わないし

わがままだし自己顕示欲のかたまりだし

女子なんかは結構腹黒いし。

 

それでも私はみんな可愛いと思う。どの子もかわいい。

いつからかな、こどもが可愛いくてしょうがないと思うようになったのは。

 

私は昔子供が大嫌いだった。

 

学生の頃や独身の頃自分のまわりに幼い子供がいなかったせいだろうか。

成長してもなおわがままや自己顕示欲を隠しきれないほど未熟であった

自分を見るようで嫌だったのか。

 

産んだら産んだでやっぱり余裕がなく

我が子ですら可愛いと思えるのにとても長い時間がかかった。

 

余所の子なんて、もう腫物を触るが様なありさま。

ちょっとわがままな子を見ると親のしつけのせいだなんて勝手にカリカリしていた。

 

正直、子供が乳幼児の頃は子供は親の所有物。という感覚でいたのかもしれない。

子供=親。の図式が強かったのかもしれない。

これは、本当は間違っている。今ならよくわかる。

 

子供は親の所有物ではないし、

親が甘やかそうが躾けをしないで育てようが

逆に厳しく育てすぎてこじれようが

いつか子供は自分の力で生きていかなくてはいけない。

経済力や生活力をつけて一人で生きていかなくてはいけない

大人になるのがずっと先の事であっても

 

まずは入園、入学などで子供は親の属さない

自分自身の世界を作らなくてはいけない。

 

ヤンチャな子もおとなしい子も良く喋る子も寡黙な子も。

みんな自分の世界を作るときに自分なりに戦って毎日生きている。

 

泣いたり笑ったり喧嘩して衝突して他者との距離を学びながら。

どれが正解かわからなくても毎日戦わなければいけない小さすぎる戦士たち。

 

希望とか生命力とかを小さな身いっぱいに詰め込んで悲しいことがあっても嫌なことがあっても明日が来るのを待っている。

 

こんなに未熟で不確かで可愛らしいものがあるだろうか。と思うようになった。

子供は親の所有物ではなく、小さくてもとても尊いひとつの人格だ。

 

子供は親の価値観に大いに左右されて育つものではあるのだろうけれど

我が家に来た時は我が家ルール。私の基準で叱ることにしている。

違う価値観に触れるのもたまにはいいでしょ。なんて思いながら。

 

結構みんな素直に言うことを聞くから逆にびっくりする。

おばちゃんめっちゃおこってごめんよ。

 

喧嘩して泣いている子がいると抱きしめるチャンスだ。

可愛いなあ。頭なでまくる。そのうち照れて嫌がって泣き止む。

 

私に訪れた劇的な変化はレアケースなのかもしれない。

子供が嫌いな女性にいいから産んでごらん。

なんて恐ろしいことは決してお勧めしない。

 

子供が大嫌いだった自分が

子供を産むのは結婚したからには義務だなんて思っていた自分が

ここに至るのは結構危うい綱渡りであったのかもしれない。

 

だからこそ、決してお勧めはできないのだが

 

今自分が不思議と安らかな気持ちで過ごせていることも事実である。

家事育児と少しばかりのお付き合い。

自分のとても狭い世間の半径数メートルの世界での安寧の話。 

 

 

 

【追記】

よそのお子さんに自宅で食事を振る舞うのはアレルギーの問題があるので危険です。

私は自治体役員をしていた時に親からの書面回答という形で提出された子供の友達60人超のアレルギーの有無のデータが頭に入っています。

子供からの口頭での大丈夫は大丈夫ではないので信用してはいけません!