明日は明日の風が吹く

無味無臭・人の記憶に残らないをモットーに人間関係の荒波をいきていく30も半ばを過ぎた私の鬱日記

自己肯定感は地を這うがごとき低さで肯定する自己すらない私

自己肯定感がトピックになっているいい機会なので

ちょっと書こうかなと思ったの”ちょっと”が案の定長くなったという、長文です。今回は笑いも無しです。長文です。暗いです。

 

自己肯定感や自己評価。

それらについて高い低いの話ができるレベルにもない私は

肯定する自己すらないカラッポの人間です。

 

虐待されたり育児放棄にあったわけでもなく

それでも自己肯定感の低い私の生育環境を語るにあたって

一番古い絶望の話からしようと思う。

 

それは私がお留守番をした時の話。

年齢もはっきりとは覚えていない。おそらく4歳か5歳ぐらい。

可愛らしいでしょう。お留守番で絶望したと聞くと。

 

私には2歳年下の弟がいた。

生まれながらに知的障害と身体障害を持った弟。

病弱な弟は入退院を繰り返していたが、特に酷い発作を自宅でおこしたその日に

救急車かタクシーかのいずれか。とにかく知らない大人が弟を運びだし母は付き添って病院へ行った。父がすぐに帰ってくるためだろうか。私はお留守番で自宅に残された。

その日は私の誕生日だった。それが私の一番古い絶望の記憶。

 

独りぼっちで泣いても喚いても叫んでもどうしようもない。自分の誕生日でも。

あきらめる。ということを私はこういう形で知った。

 

その後母が弟にかかりっきりにならざるを得なかったため

母の両親との同居が決まって父はマスオさん状態になるわけだが

父と祖母の折り合いが悪く私はお互いの悪口を吹き込まれながら育つようになる。

お互いがお互いを指して「ああいう大人になってはいけない」と私に諭した。

今思えば私のために折り合いの悪い他人と同居せざるを得なかったストレスが多大だったのだと思う。父も祖母も悪い人ではない。

 

弟が障害児だということで

他人から数えきれないほど色々なことも言われてきた

 

気持ちが悪い。怖い。側に来てほしくない。うつる。

 

弟、普通じゃないよね。

なんて言葉はオリジナリティのなさが普通過ぎて微笑ましいぐらいだ。

 

それでも私は弟が可愛らしくよく面倒を見ていたように思う。

小学校入学前に弟を抱っこして寝かしつけていた記憶もある。

口答えもしない反抗もしない。今考えると障害のある弟にはどちらも不可能だったのだけれど、それでも弟はとても可愛かった。

そして弟を可愛がって面倒をみると母はとても喜んだ。

だれかのために何かをする。ということが私のアイデンティティーになった。

 

弟の面倒を見ていさえすれば認めてもらえる。誉めてもらえる。

弟の車いすを押して小学校に通う私に周囲は「優等生」のレッテルを張った。

 

障害者の弟をもつ姉が勉強も運動も人並みにできたがために

周囲は私を優秀だと褒めた。優等生だと言った。学校の先生まで勘違いをした。

 

この頃にはもう降りられなかった。

諦めることを知り父と祖母の悪口で育ち弟の面倒を見る優秀な私は

中身がスッカラカンになっていた。優等生という仮面の元に。

だってみんな優しくしてくれたから。

誉められても何を言われているかわからない。

だって私には中身なんてないのだから。

優秀である私しか価値がないんでしょう?

 

それで自分を追い詰めたかと言えばそうでもなく

進学も推薦でなんとなく決まっていき友達も多かった。先生にも好かれた。

学生生活は豊かなものであったし

 

結婚もした。出産もした。

 

優等生というおかしなレッテルを張られた中身のない張りぼての私はその後

大人になって見栄や偽善や計算高さを貼り付けて

人当たりは良いが何を考えているか良くわからない気持ちの悪い人になった。

 

やはり肯定できる自己はない。

 

結婚以来12年夫婦喧嘩も一度もしたことがない。

自分がないため自信もなく怒ることが出来ない。

幸せではあるが孤独は感じる。

 

未だに誰かが困っていると思うと手を差し伸べずにいられない。

偽善にまみれた手を。それが私のアイデンティティーの原点だから。

 

母とも父とも祖母とも関係は良好である。弟も存命。実家に帰ってはよく弟の好きな料理を作っている。許すとか許さないとかそういう問題ではない私のケースは。ただの生育環境の話。むしろドロップアウトできなかったからこそ、そこそこ恵まれた人生になった。

 

自己肯定感が今更高くなることはないが

カラッポの自分をみとめてあげようとは思った。

中身がなくても幸せにはなれた。

 

カラッポの自分の中には

「おかーさーんおたんじょうびケーキがないよー」って泣いている幼い私がいる。

自己肯定感が低くても肯定する自己すらなくても。

人は誰だってどんな人生を歩んでいたって孤独なものじゃないの?

 

大人になった私が自己肯定感を高めることは不可能なので

せめて自分の子供には自己肯定感を持たせてあげたい。

 

カラッポの中身に

子供がいても孤独だと思う自分の傲慢さを抱きながら今日も眠りにつく。

 

明日が我が子らにとって幸せな日になりますように。

どうか我が子には自己肯定感がそなわりますように。

どうか。どうか私のようになりませんように。

どうか。