私が貴方を思っていても私の中に貴方はいません
押しなべて私は他人のことを考えるのが好きである。
ここでいう他人というのは感情的な冷たい響きを含まない自分以外のパーソナリティという意味で、友人も知人も仕事の関係者も夫も、他人です。
わたしはいつもあなたのことをおもっています。
というハートウォーミングな話ではなく
他人のことををゆっくりじっくり舐めるように観察して
相手の思想や思考や趣味や好みを頭に叩き込みデータとして保存すると共に
私は自分の中に他人の像を作っている。主に自分のために。
私は私のメリットのために自分の中に貴方をつくっている。
好きな人のデータは最大限活用して私のことを好きになってもらうために。
苦手な人のデータは最大限活用して諍いや争いごとにならないために。
日々共有する少しばかりの時間のやりとりの中で必要なデータを取り出して蓄積し
自分の中の貴方に微調整をかけている。
そうして私は私の中に貴方をつくっているわけだけれど
私の中にいる貴方は決して貴方ではない。
データをそのまま取り込んだとしても決して決して実物にはならない。
実物とどれぐらいの距離があるのかもわからない。
どんな情報を介在させれば少しでも貴方に近づくのかもわからない。
私というフィルタを介していることが間違いなのかもしれない。
人と人とは決してわかりあえないという絶望の確認作業かもしれない。
それでも私は自分の中に他人の像の幻をつくることを辞められないのだ。
私がどれだけ貴方のことを思ったとしても私の中に貴方はいません。
先日10年ほど前に親交のあった人と偶然道で出会うということがあった。
個人的にそれほど親しくしていたわけではなかったけれど
私はとても好きな人であった。
それ以来親交はなかったのだけれどお互いの友人知人同士が知り合いかもしれず
彼女は転居先である今の私の居住地を知っていた。
彼女は言う。あのあたり(私の居住地)を通りかかった時に今どうしているのかなって思いだしたばかりだったの、あなたのことを、だから今日の偶然は私が呼んだのかもしれないね。と。
私は私の中に他人の像を作ることが好きである。
10年前から更新されていない彼女の像もまたたくまに呼び出すことができた。
儚げで優しくいつも女性らしくいて、冷静で中立的で公平だった彼女を。
私は私の中に他人の像を作るのが好きであるが
他人の中にいる私を意識したことはなかった。
あなたの中にも私はいたのか。
記憶されたのがどんな私でも良かった。
相手の中に自分が存在しうる可能性に触れた手触りは何だかくすぐったくもあり
少しばかりの間胸を満たしたこの感覚は、静かな感動だった。