ギブアンドテイクの双方向性の無さ
人生は所詮ギブアンドテイクだ。
人と人とは持ちつ持たれつだ。
なんだかんだ言ってお互い様。
まるでこの世の理のように言い伝えられてきた言葉たち。
私がもっと若くて性格的にもとんがっていた頃には
ギブアンドテイクが成り立たないこと
ちっとも相手が返してくれないことに憤ったりもした。
好きでやっているのに。
むしろ見当はずれの”施し”をして相手を困惑させていたとしても
なんでお前は返さないんだ!!って憤死しそうになっていた。
見返りを求めないなんて綺麗ごと言うなって思っていた。
年を取って結婚して出産して、諦めとか、いい加減は良い加減とか、夫に目くじら立てないこととか、夫に過剰な期待をしないこととか、かわりに自分にも甘くすることとか、人生が生きやすくなるように色々となあなあになってきて、これが丸くなるってことかも!と他人から見れば「負け」とも言われそうなこの緩い感じの中、もはや憤ることも憤る元気も無くなり、ポンと手をうち「丸くなった」と自己肯定を始めてふと思えば
私は今までお世話になった人にちゃんと恩を返せているのかと思った。
育児が辛くて毎日泣きそうになったり実際泣いていたりしたときに
街で見知らぬ人に「頑張っているね。いい子に育っているよ」って言ってもらえて本当に救われたとしても、見知らぬ相手から私が不意に受け取ったとても大きなものは返せそうにない。明日からも生きていこうと思えた一言をもらったとしても私には何も返せない。
じゃあ知り合いならどうだろうというと
私がインフルエンザで寝込んで仕事中の夫にも連絡が付かず子供のご飯さえまともに用意できなかった時に、察知した近所の友人が救援物資を玄関扉にかけてくれたりもした。子供のごはんとか私のためのポカリとかゼリーとか。大げさに言うのなら命の恩人でもある友人にちゃんと恩は返せたのか(借りた恩を返そうと色々してみても、あの助かった!感からはほど遠い)
今まで色々な人に優しくしてもらってきた私はちゃんとギブアンドテイクができていたのか。できてやしないんだ。ちゃんと返せ泥棒!!なんて思っていた自分は何も返せていない。
沢山の人に助けられてここまで来て始めて
ギブアンドテイクは双方向性のみのものではないかもしれないと思った。
AとBなる2者がいたらギブアンドテイクは2者間で完結するものではないのかもしれない。
情けは人のためならず。
見返りを求めない。
ってこういう事なのかもしれないと思った。
今まで生きてきて僅かばかりでも誰かにギブできていたことがあったとしたらその分のテイクは十分すぎるほどに私は受け取っている。むしろ返せていないことを気に病んだ方がいいぐらいだ。
人生において優しくされることと優しくすることの総量が一緒だとしたなら
これから人に優しくして返していこうと思う。
あと押しつけのギブや優しさもダメだよなー。
押し付けがましくなくさりげなくかゆいところに手が届く感じで
相手との関係を尊重しつつ、何かできたらと思った。
この微妙なさじ加減が難しい。難しいので
さじ加減が分からなくなった時は「あなたが好き」とでも叫ぼうか(いい迷惑)